読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

鎧ならたくさんある。

『作家たちの秘密』読了。

読めば読むほど辛くなるが、とても参考になる本だった。自分が創作に手を染めていなければ、これほど面白いと思わなかったかもしれない。どんなきっかけでこの本を見つけたのかは忘れてしまったが、読めてよかった。

 

ASD傾向を持つ作家のひとり、シャーウッド・アンダーソンは、1919年に「ワインズバーグ・オハイオ」を書いた。この文学作品は架空の街ワインズバーグを舞台に22の小品が連なる連作短編小説である。著者は、アンダーソンの非定型発達者ゆえの「全体的統合の弱さ」がこの形式をもたらしたのだという。ASDの作家は、長い物語を構築するより、コラージュのように断片を組み合わせて作品をつくることが得意なのだとか。

 

わかる。長い話を夢想したことはあっても、手をつけたことはなかった。依頼を受けて、ここ二年かけて数百枚書いたのが、生まれて初めての長編だ。

 

以下の抜粋は、自分のことを書いてあるのかなと思ったところ。逆に、定型であればそんなふうに考えないのだと初めて認識した。いや、うすうすそんな気はしていたけど…はっきり字にされると「お、おう」と後ずさりしたくなる(笑

 

「自己の流動性は、自閉症スペクトラムの人に多く見られる特徴です。本書に登場する自伝作家の全員、それに小説の作家の多くも、流動的で可塑性の自己という感覚を持っています。私が教えているASの学生の1人は、約十種類のアイデンティティをランダムに使い分け、そのことを「世間に向ける鎧の交換」と呼んでいます。こうした交換は、短編小説、詩、劇作など、ある種の創作に恩恵をもたらすこともあります。」(p.231)

 

自分の場合、このアイデンティティの鎧は三つ半ある。ふだんの生活や社交などをこなし、こうしてこれを書いている「ホテルのフロント係」と、フロント係の相談相手の、年上の異性である「バーテンダー」(昔書いていた創作の登場人物でもある)、そしてもうひとつは創作時にしか起きてこない「中の人」。便宜上、人とは呼んでいるが、たぶんこいつは人型でもなく、まともに口もきかない。ほぼネタ出し妖怪なのだが、創作に関しては絶対の決定権を持っていて、かれに逆らうと一行も進まなくなる。最後に、見える形がない「スケジューラ」がいて(だから半人前)これに仕事や遊び、やらなければいけないことのスケジューリングとタイムキープを突っ込んでおくと、それに間に合うように身体を動かしてくれる。

解離障害でいう別人格持ちとは違って、フロント係の優位性(その名のごとく常に対外業務をこなしているので、これが周囲から見える「自分」だ)は揺るがない。あとの二つ半は、決して「外」に浮かび上がることはない。また、最も外側の鎧が「ホテルのフロント係」として存在しているのは、不可視のホテルの宿泊客としてほかの名もない多数のアイデンティティの存在を暗示しているのかもしれない。子供の見えない友として有名なイマジナリー・フレンド(不勉強のうえ、定義も難しいようなのでここでは触れない)に近い気もするが、大人になってからもずっと存在しているので、彼らはいったい何なんだろうなあと思っていたのだ…。

学生時代にはこんなふうにはっきり分かれていなくて、自分の中には、思考している自分とは別に、意思決定のためのブラックボックスがあるとしかわからなかった。「サードマン現象」など、守護天使のようにふるまう脳内の第三者については、いろいろな説がある。自分の鎧たちもあれこれよく助けてくれているし、追い出そうとか消えて欲しいとは思わない。定型のひとから見るとアタマおかしいと思われるだろうが。

 

「マイケル・フィッツジェラルドは、ASの人に共通の特徴として、「自閉症的想像力」と「新規さの追求」をあげています。フィッツジェラルドは、ASの人には「無邪気さ」と「体制に順応しない姿勢」があると考えています。」(p.234)

 

「グランディの共同執筆者のマーガレット・スカリアノは、作品の編集に当たり、定型発達の読者を念頭に置いたものと思われます。これはアメリカ南部の奴隷が書いた自伝を北部の白人編集者が編集して、洗練された物語を同情的な白人の読者に広めたのに似ています。執筆者が"話を伝える"手助けを得られたことには感謝すべきですが、その過程で自閉症的な言語や語り口の豊かさが失われてしまった可能性もないとは言えません。」

 「ハーマン・メルヴィルは、自分が二種類の読者ーー自分自身と世間のために書いていると考えていて、双方喜ばせようと苦心し、結局はますますいらだちを募らせました。「私が最も書こうという気にさせられるものは、書いてはならないーー書いて報いられることはない。だからといって、結局は、他のやり方でも書けないのだ。だから、作品は最後には寄せ集めとなるし、私の本はすべてみっともないごたまぜだ」」(p.267-268)

 

フィッツジェラルドもそれに近い見解を述べています。「アスペルガー症候群の人々は……アイデンティティや自己の感覚に乏しい。その結果、継続的なアイディアの追求にしばしば熱中し、複数の役割を受け入れたり、何らかの形で自分を作り直すことがあるーーいわゆるアイデンティティの拡散である。」本書に登場する5人の自伝作家は、全員が複数の自己をどんなプロセスで生み出したか、それがやがてひとつの一貫した自己ににどう融合されたかを語っています。」(p.272)

 

徹頭徹尾、自分のために書いてきた。

だから、書いたものをほかのひとが読んでどう思うのかには、ほとんど興味がない。

ネットの創作クラスタまわりでは、書いた作品に評価を求める動きを承認欲求と結びつける話がよく出るけれど、夜毎の夢や独り言似た自分の創作を他人に理解されたいとも、理解されるだろうとも思えないので、そこらへんはどうも実感できない。ひとがどう思おうが、はてしなくどうでもいい。立ち入られたくないのだ。心の裏庭に。

実際、書いたものが万人受けすることはなかった。プライベートなゴミを世間に晒す意味がどこに? と思いながら、それでも熱烈に評価してくれる少数の読者さんのために公開を続けているのが実情だ。彼らのために書きたいと思う。けれど、それがうまくできない。メルヴィルの気持ちは、本当によくわかる。人を喜ばせるために歌えたらと思いながら、期待には応えられないのもわかっている。それが辛い。

 

それにしても。自分の心の特性と創作方法がこれほど密接に関わっていると知ったのは、はたしてよいことだったのか。

それは、これからわかるだろう。